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木工法にに夢を見た


木のこころを育ててくれた天竜のまち

天竜のまち天竜のまちは、諏訪湖を発した天竜川が、大らかな伊那盆地をのんびりと流れ、天竜峡から山あいに入って、竜のように蛇行しながら遠州平野へと注ぐ、ちょうどその喉元にあたるまちです。二俣線の鉄憍と国道152号線の橋が架かる鹿島から先は、一気に川幅が広がり、平野部へと放たれます。この鹿島で毎夏開かれる「鹿島の花火」は、音がよく響くことで有名な花火大会です。両岸から迫る山に花火の音がこだまするので、花火の音がお腹にずしんと響くのです。

鹿島から下流の遠州平野は,河口に近づくにしたがって、三角州の広がりをみせます。広がりの両岸には、西側に三方原台地があり、東側には磐田原台地があって、川の土堤を走る自動車道から眺めると、遠くに台地の断面地形を明瞭な姿でみることができます。

古文書によれば、古代の天竜川は、この二つの台地の間にあって、氾濫を繰り返しながら、東に西に西側に気ままに流れていたようです。下流の中瀬という地名に、その名残りが残されています。浜松の西側(浜名湖寄り)に、新幹線のJR浜松工場がありますが、そこから天竜川の川砂が掘り出されたといいますから、古代の天竜川がいかに縦横無尽に流れていたかがうかがえます。

二俣のまちは、江戸時代から明治にかけて、秋葉信仰の参詣の宿場まちとして賑わったときもありますが、天竜美林による典型的な林業の町として全国に広く知られます。天竜の山といえば、地元の偉人金原明善翁による治山治水の献身的な活動で知られます。毎年のように氾濫を繰り返す暴れ天竜を収めるには、山に木を植えることだと悟った明善翁は、自分の持てる財産の一切を投げ打って植林へと乗り出します。

しかし、明善の前に天竜の山に木を植えた先達がいました。明善翁がモデルとした山住神社二十三代宮司·藤原茂辰がその人でした。藤原茂辰は、乱伐によって痩せた山を憂い、元禄9(1696)年、紀州熊野神社参内の折に苗木3万本を買い付け、以降、亡くなる年(1744年)までの48年間にわたり、36万本に及ぶ植林を行ったとされます。

天竜は美林として知られますが、そこには、先達たちが1本1本苗木を植えた労苦がこめられていて、齋藤陸郎が山に対して畏敬の念を抱くのは、そんな天竜の山への想いが背景にあるからです。二俣から、少し遡った船明の集落は、かつては榑木の集積地とて知られます。榑木とは、山出しの板材(薄板、へぎいた)をいいます。

板ぶき屋根が普及するにしたがい屋根板として多用され、天竜水系の榑木は通直なヒノキを蜜柑割りして、米の代わりに年貢として収められました。船明は、管流しによってばらばらに流されてきたものを、網を張って堰き止めて陸揚げし、榑山に積み重ねられる集積場でした。ここから荷駄や帆かけ船で川下に運びおろされました。

さて、われらの齋藤陸郎が、この天竜のまちにやってきたのは中学三年になってからでした。陸郎は、1934(昭和9)年、宮城県北にある中田町(現登米市)に生まれました。北上川が豊かに流れる、平坦な田園(米どころ)が広がる陸奥の農村でした。父の仕事の関係で天竜に引っ越してきたのでした。陸郎は家族と一緒に、東北本線の瀬峰駅から列車に乗り込み、上野、東京と乗り継いで浜松で降り、そこからローカル線の西鹿島線に乗り換えて天竜のまちへと向かいました。

野を走る電車の傍らの道には、牛や馬の荷馬車がのどかに往き交っていました。それはどこか、育つた宮城の田舎に似ていましたが、牛が運ぶ大きな木材をみて、育った場所と異なる風景をそこに見出したといいます。陸郎を乗せた電車は、コトコトと遠州平野をすすみます。丘陵と丘陵の間が狭まり、やがて山の入り口を思わせる鹿島の駅に着いたとき、今日から自分は山の人間になるのだと思い、つよい興奮を覚えたといいます。

齋藤陸郎の修行時代

齋藤陸郎は、県立二俣高校を卒業して、日本大学経済学部へと進みます。同校を卒業後の1957(昭和32)年、渋谷神宮通りに面した材木店、秋山商店に就職します。この年は、立教大学·長嶋茂雄選手の巨人軍入団が決まった年であり、東京タワーが竣工中で、映画「ALWAYS-二丁目の夕日」に描かれた時代そのものでした。
大学卒業初任給は、平均1万2千円でした。1万円の新紙幣(聖徳太子)が登場したばかりでしたが、陸郎の給与袋には1万円札は入っておりませんでした。齋藤青年は、材木店の住み込み社員としてスタートを切ったのでした。

当時、秋山商店の社員というと、中学校をでて叩き上げの者ばかりでした。陸郎は、丁稚奉公で育った社員と寝起きを共にして社会生活をスタートさせるのです。社長の秋山兼松さんは亡くなられましたが、社員のお母さん役だった社長夫人の秋山登志栄さんは、今もお元気に暮らしておられます。

登志栄さんは当時を懐かしんで、こう振り返ります。几丈「丁稚から叩き上げの社員建具材髋永は馴れていましたが、学士さまが来るというので、食べ物は? 寝具は? 部屋は? どうしようどうしようと悩みました」 「主人は、重要な取引先の子息をお預かりするという気持ちが強かったのでしょうね。お預かりするとは、遊ばせることではなくて逞しく鍛えることだ、というのです」

兼松社長は、番頭の清久さんを教育担当にされ、齋藤青年は、その横にぴったり張り付いていました。清久さんが「陸郎、行くぞう」というと、齋藤青年は甲高い声で、元気よく「はいっ!」という声が店中に響いたといいます。「この陸郎さんの明るさに、こんなことでいいのかと悩んでいた私は、大いに救われましたね。

あのときの「はい?」という明るい声が、陸郎さんの一番の思い出で、電話でお話していても、そのときのことが思い出されて、楽しい気持ちにさせてくれます」と登志栄さんはいいます。この生来の朗らかさこそ陸郎の魅力です。学生時代に製材工場でアルバイトしていたこともあり、陸郎にとって材木店の仕事は苦痛なものではありませんでした。それよりも、納入先の東急電鉄や鹿島建設の建築現場に立つことが、おもしろかったといいます。

また、銭湯を共にした叩き上げ先輩社員の肩に毛が生えているのが驚きでした。木材を担いでいると肩に毛が生えるんだよ、とその先輩社員はいいました。この仕事で生きる以上、自分もまた肩に毛が生えるほど頑張らなくては、と思うのでした。陸郎の生涯にとって、秋山商店に勤めた期間はごく短かいものでしたが、大きな財産となりました。

最初の仕事は「愛妻の家」

齋藤陸郎は、サケが生まれた川に戻るように、天竜のまちに戻って仕事を始めます。1962(昭和37)年に、製材業を主体とする日東木材産業株式会社を設立し、続いて日東ハウスを立ち上げ、住宅の販売にも乗り出します。

陸郎は、最初に建てた家の名前を「愛妻の家」と名づけます。殊のほかハード好きな陸郎なのに、根底に、家はソフトであるという考えがうかがえるネーミングです。本田宗一郎が、自身が生んだオートバイを「ドリーム号」と名づけたことに似ているのかも知れません。陸郎にとって、住まいは、愛妻が住む世界なのでした。

しかし、ハードとなる建物の構造には、齋藤陸郎らしくいっぱいの工夫が詰まっていました。作家は処女作に、その作家のすべてが詰まっているといいますが、「愛妻の家」には、齋藤陸郎的発想の萌芽をみることができます。最初に考え出した工法は10センチ角の材料だけで構造部分が全部揃うシステムでした。

10センチ角そのままで、柱、梁,土台、二つ割にして11階根太に、三つ割で間柱に、四つ割で1階根太と垂木にするもので、ツーブン方式(二つずつに分解できる)と名づけ、これに片面ベニア製のパネルを考案して取り付け、一つの住宅システムとしました。

このシステムは、鉄骨製の事務所建設現場が開発のきっかけとなります。当時のメモをみると
・工期がきびしい。間柱作業等の大工仕事がしわ寄せを受ける。
合理化して簡単に施工できないか?
木造で、この仕組みはできないか?
同じ材料だけで構造体が出来ないか?
このメモにみるのは、一種のシステム思考です。今でこそシステム思考がいわれますが、この時代にあって、それは異例といえる存在でした。天竜の山にあって・・・・・。
「愛妻の家」は、当時の標準住宅(18~24坪=坪/14~15万円)にあって、7万8千円/坪で販売されました。まさに新婚向け合理化住宅として開発されたのです。

東京女子大や軽井沢の聖ポール教会の設計などで知られる建築家アントニン·レーモンドは、若い所員に向かって「五つの原則」を説いたといわれます。五つの原則とは、自然(ナチュラル)、単純(シンプル)、直截(ダイレクト)、正直(オネスト)、経済(エコノミー)をいいます。そのとき、陸郎はレーモンドの言葉を知りませんでしたが、実践していたのは、まさにこの志向のものでした。

疾風怒涛の時代

日本の住宅生産は、1960(昭和35)年から1972(昭和47)年までの12年間に、年間46万戸から186万戸へと4倍増加します。この急激な需要の増加を受けて、それまで日本の住宅は軸組工法が多くを占めていましたが、その軸組工法自体、変容を余儀なくされます。また、プレハブ住宅とツーバイフォー工法への関心が高まりました。

日本で木質プレハブ工法は,ミサワホームが建設大臣認定を取得した1962(昭和37)年に始まります。それに追いつけ、追い越そうと後続メーカーが次々に参入します。一方、ツーバイフォー工法は関東大震災(1923年)後の復旧に際して日本に導入(そのときはバルーンフレーム工法と呼ばれていました)されていました。この背景のもとに、行政がリードしながら業界新聞がそれを紙面化し、アメリカへの住宅視察団が組まれました。

齋藤陸郎は天竜のまちにあって、この新しい動きに感じるものがあり、視察団の第1回のツアーに応募します。機をみるに敏というより、アメリカの住宅への強い興味が動かしました。あの山の向こうに何かがあると思うと、陸郎は逸る気持ちを抑えることができませんでした。そうして陸郎は、羽田からハワイを中継してアメリカへと飛び立ちます。当時の空気は、高度経済成長に向けて、どの業界も疾風怒濤(シュトゥルム-ウント-ドラング)の時代というべきで、高揚した気分が横溢していました。たとえば、日本の流通業界のメンバーも同じようにアメリカに渡航します。

「みんな一張羅の背広で、靴をぴかぴかに磨き、手を振ってプロペラ機に乗った。アメリカはショックを与えた。安ホテルで深夜まで討論、燃えていた。貧しく、若く、将来は無限の可能性をはらんでいるように思えた」(吉田繁治の講演記録から/経営と情報システムのコンサルタント)この様態と気分は、齋藤陸郎のものでもありました。

ツーバイフォー住宅は、アメリカ、カナダにおいて特異な発達を遂げた工法です。開拓者としてアメリカに渡った多くの白人がもともと住んでいた家は、レンガ、石などを主材とした組積造建築でした。けれども、レンガも石の建築も高価のため手が出ませんでした。しかし、木材は豊富で大量かつ安価に入手できました。プロの職人を雇う経済的余裕も人手もなかった彼らは、ヨコ11インチ、タテ4インチ(約4センチと10センチ)の角材を用いたツーバイフォー工法(正式には枠組壁工法/プラットフォーム·フレーム工法)を選択します。この工法は、素人でも建設可能な簡便な建築方法でした。

陸郎がアメリカに渡ったとき、ツーバイフォー工法は、当初のものからすれば格段に改良がなされ、技術的には成熟したレベルに達していました。陸朗は、めずらしさもあって、アメリカ人のライフスタイルや、広い土地に建つアーリーアメリカン様式のデザインに心を魅かれましたが、特に合理的、省力的な手法に目を開かれました。さらに、軸組木造工法と比較して、15%ものローコスト化がはかれるという説明に、つよく心を動かされました。

日本に戻った陸郎は、ツーバイフォー工法(日本ではこれを「枠組壁工法」と名づけました)がオープン化されると、住宅金融公庫仕様による国内初の取り組みを進めます。建設省(現国土交通省)建築研究所で行われた実大実験の結果を踏まえての判断でした。日東のツーバイフォー住宅は評判がよくて、会社の業績も伸張しました。しかしながら、陸郎は徐々にこの工法に対しての疑問が膨らみます。この工法では、日本人が求める開放的な空間を実現するにはむずかしく、和室を設けるとコストが嵩みます。

陸郎は、「札幌時計台」(札幌市)の建物が好きでした。この建物は、おおらかな表情を持ち、厳しい北海道の風雪に耐えて、今も健在です。しかし、本州以南の住宅をみると、大きい窓を取り難いツーバイフォー住宅では、多雨湿潤な気候に合わないように思われました。

もっと大きな問題は、天竜美林の真っ只中で仕事をしながら、素材が輸入材中心だったことです。計画伐採されていないことや、材料強度や乾燥など、日本の山に内在する諸問題を考慮し、日本林業の後進性に変化を呼ぶためにも、あえて輸入材を用いることを厭いませんでしたが、現実を直視すると、天竜の山の荒廃が目立ち、もはや見過ごすことができない段階に入っていました。日本の木を用いた軸組工法を基本に置きながら、壁工法が持つ強さを実現できないものかと陸郎は考えました。このあたり思い立ったら、真っ直ぐに進むのが齋藤陸郎です。ここから、独自の種(シーズ)を求める取り組みが本格的に開始されます。

木工法への夢

軸組工法は、柱と梁からなる架構法です。
一口に軸組工法というものの、伝統的な架構にみられるように、太い通し柱と太い梁を仕口、継手を用いて建てる軸組もあれば、すべて管柱(1層分の柱)で構成されている軸組もあります。また、構造用合板を用いたパネルを組み合わせたものも軸組として括られています。

似た意味あいで使われる言葉に、在来工法という言葉があります。この言葉は、プレハブ工法や枠組壁工法が登場したことにより、それらと明確に区別するために用いられた言葉とするのが妥当です。近代以前から改良すべきことのない構法は伝統工法と称され、ここに述べた軸組工法や在来工法とは区別されます。同じように考えがちですが、一緒にすると混乱します。

というのは、伝統工法の真髄を踏んだ家は、地震による衝撃を実に巧妙に回避する知恵が盛り込まれていますが,半端にやられたものは、かえって被害が顕著だからです。大きな地震が起こるたびに木造住宅の倒壊事故が伝えられますが、あれらは構造的な欠陥を持った木造住宅というべきです。

在来工法の特徴の一つとされる、コンクリートの布基礎は、1951(昭和26)年の住宅金融公庫仕様書に標準的な基礎断面図が記載されてから一般化されたもので、古来からのものではありません。この布基礎は底盤がなく、無筋でした。その後、施行令によって改められましたが、無筋コンクリート造の布基礎が削除されたのは1985((昭和60)年になってからでした。現在の基準からすると、このような不適格な建物が、地震による建物倒壊を招いたのです。

齋藤陸郎は、伝統工法が持つ魅力をよく知っていました。その関心が、後に「さくりはめ壁」と結びつくのですが、伝統工法は高度な職人技術を必要とし、材料の入手も容易ではありません。建てたくても、普通の建築予算ではなかなか追いつきません。陸郎は、その最初の仕事を「愛妻の家」でスタートしたように、手ごろな予算で建てられる質の高い家をつくることが、自分の生涯の仕事と定めてきました。陸郎の木工法への夢は、そこに掛かってあるのであり、そのための工法の探求でした。

軸組工法は、軸で支える構造なので、壁の配置に制約が少なく、大きな開口部をつくれます。通風や採光に優れ、また、増改築が容易で、使用する木材によって予算も柔軟に調整できます。この良さを知るものの、この工法は構造力学的に見ると曖昧さを残しています。阪神、淡路大震災を経て筋かい強度に頼る方法に、その脆さを痛感するのでした。

陸郎は、枠組壁工法(ツーバイフォー工法)を経験することにより、耐力壁の重要性を知り、また接合金物に対する意識が生まれました。軸組と壁工法の高次な統一は、果たして可能なのか?

現在の金物工法の理解は、この陸郎の発想を基調にするようになりましたが、当初においては理想が過ぎるとみられました。特にムク材に適した金物の開発は不適のこととされ、誰も手をつけませんでし右陸郎は、この理想に向かって無心に取り組みます。

木工法への夢は、今も追い求められています。